どーも!タツマルです🐲
前回「ポンコツでも億り人になれる①(借金で人生が詰んでしまう!?)」では、いかに私が、お金にルーズなポンコツだったかを書きました。
今回はその続きです。
生命保険を解約す
「ナニワ金融道」というマンガを読んで借金の恐ろしさを知った私。
妻に預けた自分名義のクレジットカードで滞納を繰り返し、その都度サラ金でキャッシングしている現状に、危機感を募らせます。
「このままでは自分の人生、詰んでしまう!😱」と、恐怖におびえた私は、妻を説得してキャッシュカードとクレジットカードを取り戻し、自分で管理するようになりました。
その後、クレカ滞納はなくなりましたが、さらに家計を改善するため、生命保険を解約することにしたんです。
それまで月々18千円の保険料を払っていたのですが、もはやそんな余裕はありません。死亡保険金がなんと5000万円の保険契約ですが、そもそも私が死んだところで遺族が5000万円も必要とは思えません。子供もいなかったし・・。
加入から6年以上経っており、保険料を累計120万円ぐらい払ってました。ですので解約返戻金はそれなりにあるだろうと思い、保険会社に解約を申し入れたんです。
ところが戻ってきたお金は、たったの12万円・・・。
ウソでしょー!😱少なくとも30万円以上はあると思っていたのにー・・・。解約返戻金がなんでこんなに少ないのか、さっぱりわかりませんでした。(バカでしたので😓)
今思えばそれもそのはずで、私の保険は4500万円の定期保険(掛け捨て)と500万円の終身保険を組み合わせた「定期付終身保険」という契約だったのです。
だから解約返戻金の対象は、保険金のわずか10%にすぎない終身部分のみ。ゆえに、計算根拠はわかりませんが、解約して戻ってくるお金は12万円程度が相応なのでしょう。当時はそんなこともわかってませんでした。
まあ、解約返戻金の額は不満ですが、多少なりともお金が戻り、かつ今後の保険料負担がなくなるのは幸いです。このとき生命保険を解約したことは、私にとって最良の決断でした。
サラ金50万円流用事件勃発!
生命保険料の負担がなくなり、クレジットカードの滞納も無くなり、少しずつ金銭的な余裕を取り戻し始めたある日。私は一通の封書を受け取ります。
それは私のキャッシング用カード発行元の大手サラ金会社からでした。
「ん?最近はお金借りてないはずなのに・・🤔」と、不審に思い封書を開くと、な!なんと50万円の貸し付けを実行したとの通知書面でした。それを見た私は、「なんじゃこりゃーっ!?」と大混乱!
「もしかして、もしかすると・・・」と妻に尋ねてみると、案の定です。私の手にある通知書面を見て観念したのか、妻はあっさりと私のキャッシングカードでサラ金からお金を引き出したことを認めました。
「一体全体50万円もの金を何に使ったの?」と問いただすと、実家の商売の資金繰りがピンチだったので親に送金した、とのことです。
なぜ私に黙って私のカードでキャッシングしたのか?なぜ相談してくれなかったのか?と尋ねると、「頼んでも断られると思ったから」と言ってます。
・・・どうやら私たちの信頼関係はすでに崩壊していたようでした。これ以上一緒にやっていくのは無理と、そのとき悟ります。
とにかくまずはサラ金の借金50万円をなんとかしなければなりません。私は妻に、どうやって返済するつもりなのか聞きました。実家の商売がピンチを切り抜ければすぐに返済できる、と彼女は言ってます。
ですが、どうも雲行きが怪しい。妻の実家はかつて賑わっていた地方都市で飲食店をやっているのですが、当時からその街は人口減少が著しかったんです。そのため商売が上向く気配はなく、やっぱりいつ返せるかわからない、と言いだす始末・・。
それでは困るので、結局、妻が仕事に復帰することとなりました。彼女は結婚前に、イベントや旅行ツアーの企画運営の仕事をフリーでやっており、独身の頃はかなり稼いでました。
実家近くの地方都市で働いていたこともあり、妻はその仕事に専念するため実家に戻ることになりました。そこから別居生活が始まります。
書籍「道は開ける」に救われる
数年ぶりのひとり暮らしが始まりましたが、寂しさを感じることはありませんでした。思えば、妻との生活はトラブル続きだったのです。
若かったので、お互い相手が「自分の理想通りの振る舞いをしてほしい」という気持ちがあったと思います。でも実際はそうならないので、相手の言動にいちいち「なんでそうなるの?」と反応し、喧嘩ばかりしてました。
妻はフリーでイベント系の仕事をしているだけあって、気性の激しい人でした。小心者のサラリーマンである私とは正反対の性格で、怒ると手がつけられません。
妻の機嫌を損ねないよう私は、日々おそるおそる接してました。それがむしろ気に障るようで、相手はますます機嫌が悪くなります。
独身の頃に思い描いていた、穏やかな結婚生活とは程遠い暮らしぶりでした。ぎゃんぎゃんとわめき散らす妻を見て、「なんでこんなことになってしまったのか?自分の人生、これからもずっとこうなのか?」と暗澹たる思いです。
大げさではなく人生を悲観していました。何もかも投げ出して、どこかに消えてしまいたい気分でした。そんな時、私を救ってくれたのが、やはり一冊の本です。
それは、デール・カーネギー著「道は開ける」。
この本は同著者による「人を動かす」とともに世界的なベストセラーとなり、日本でも注目されていました。私はその2冊を新入社員の頃に購入し、今でも持っています。
当時、人事部門に配属されたこともあり、友人から「人を動かす」を薦められて読みました。とても興味深い内容だったので、続けて「道は開ける」も買って読んでみたんです。そのときは特に響かなかったのですが、その後私は、この本に何度も何度も目を通すことになります。
悩みを抱えているときに読むと、心に強く響くんです。私は人生のピンチに陥ったとき、必ずこの本を手にとって読み返してきました。そうすると悩みと恐怖に苛まれていた気持ちが、静かに落ち着いてくるんです。
この書籍「道は開ける」には何度救われたかわかりません。この本に出会わなければ、どんな人生を送っていたでしょう?間違いなく今の自分とは違ったネガティブな人生だったと思います。

離婚に向けて動き出す
さて、別居開始から1年近く経つ頃、ひょっこりと妻が戻ってきました。サラ金に返済する50万円と利息を用意できたので帰ってきた、というわけです。
私はそのお金を受け取って直ちにサラ金に返済し、かつキャッシングカードを解約しました。これでひと安心です。
その後も妻との生活は続きましたが、それはなんともギクシャクしたものでした。この「サラ金50万円流用事件」は、私の心に相当な重しとなってました。もはやこの相手とはやっていけないと、いつも考えていました。
このままギクシャクしていてもしょうがないので、その気持ちを妻に伝え、今後どうするか話し合うことにしました。妻も私との生活を続けるのは難しいと考えていたようで、話し合いはスムーズです。
ともあれ、別に妻を憎んでいるわけではありません。気性は激しいものの、その分とても情に厚い人です。時折、感情的なやり取りもあって、なかなか結論が出ませんでした。
そこで冷却期間を置くため、再び別居することにしました。別居して改めて冷静に考えられるようになり、やはり区切りをつけるべきだろう、との結論に達したわけです。
私と妻は、育った環境が大きく異なるため、モノの見方や価値観がかけ離れていました。そんなことは結婚前からわかっていたのですが、結婚生活が始まれば何とかなるだろう、と楽観的に考えてました。
でもそれは大きな間違いでした。結婚生活が始まると、価値観の違いがさらに際立ち、軋轢が増してきたのです。「結婚して一緒に暮らせば何とかなる」というのは、本当にとんでもない間違いなんです。
私は自分の結論を伝えるため別居中の妻に電話しました。そして冷静な頭で「離婚が互いにとって望ましいと思う」と伝えます。電話の向こうの妻もそれに同意しました。
まだ子供がいなかったこともあり、その後の手続きはスムーズに進みました。
離婚届の用紙をもらいに市役所に出向きます。役所のカウンターで「離婚届の用紙をください」と告げると、その場にいた何人かの職員が、わずかにですが一斉にどよめいたのが妙に印象に残っています。別に離婚なんて珍しいことでもあるまいにー😓
離婚届の用紙に署名・捺印して妻に送ります。離婚の条件は、私が妻に慰謝料50万円と財産分与としてクルマを渡し、かつ家具などの売却代金もすべて渡すことで決着。すったもんだすることなく、スムーズに協議離婚が成立しました。
それが、今から30年前の1995年2月のことです。前回述べた通り私は、その時点で配偶者を失い、手持ちの現金もほとんどなくなり、借金が200万円以上残りました。おまけに会社の社宅まで追い出されることになったんです。ファミリー向けの社宅ゆえ独身者(離婚者)は出てけー!というわけです。
自ら離婚を決めたとはいえ、このときばかりは裸で放りだされたような気分でした😭
「何もかも失ってしまった!」といいたいところですが、唯一仕事だけは残りました。その時は新卒で入社した会社に勤めてましたので。(結局、その会社で60歳定年まで働きました)
当時、社宅は出ていかざるを得なかったものの、この会社に所属していたことでずいぶんと助けられました。仕事さえ続けられればいずれ何とかなります。その意味では、私は大変恵まれてました。
ドン底から這い上がる決意
離婚に伴い社宅を退去して、都内で家賃68千円の1Kアパートの部屋を借りた私。2月の寒空の下、引っ越しを終えました。1月に神戸で大地震(阪神大震災)が起きた直後でしたので、世の中が騒然としていた時期です。
しかもその直後の同年3月には「地下鉄サリン事件」が起きます。それは、都内の地下鉄複数路線の車内で、猛毒ガスのサリンが撒かれ、多くの乗客や営団地下鉄職員の方々が被害に遭われた、前代未聞のテロ事件です。都内に引っ越したばかりの私は丸の内線で通勤しており、危うく被災するところでしたが、時間帯が違ったため被害を免れました。
このように1995年という年は、世の中的にも大きな出来事が頻発し、とても印象に残る年でした。
その激動の時代に私は、ドン底から這い上がり、自分の人生を取り戻すべく、動き始めます。
まずやるべきことは借金の整理。
なにはさておき、結婚費用として叔父から借りた100万円をなんとかしなければなりません。借りてから既に3年以上経ってますが、まだ1円も返してませんでした。督促はされませんでしたが良い気分ではないでしょう。
私は叔父に電話して、「今後、毎月3万円、ボーナス時に10万円を送金し、2年以内に100万円を完済したい。」と伝えます。
このときの私の申し出に対する叔父の言葉が、その後の私の人生を決定的に変えた!といっても過言ではありません。
「毎月少しずつ返すっていうのはダメだ。それだとお前(私のこと)が100万円の重みを感じないまま、いつのまにか返し終わってしまう。それじゃ何も変わらないだろ?返すなら自力で100万円積み上げて持って来い。一括返済じゃないと受け取らないからな。わかったか!」
と言われたんです。まさかそんなこと言われるとは・・・。
確かに私は、積み上げたお金の重みというものをまるで分っていませんでした。というか、自力で100万円もの大金を貯めたことなんて、それまで一度もなかったんです。
高額な買い物(クルマやオーディオやパソコン等)をするときは、当たり前のようにローンを組んで、チョビチョビ返してました。常に何かのローンを返済しているのが当たり前の状態で、ローンがないと落ち着かないほどでした。買う前にお金を貯める、なんて発想はまるでありません。
そんな愚かな私が、「100万円を積み上げて、その重みを感じろ!」という叔父の言葉で目を覚まされます。この時の気づきは、計り知れないほど大きい。私はメチャクチャ燃えました!
「とにかく一刻も早く借金を返し、何が何でもこのドン底から這い上がる!そしてゆくゆくは巨大な資産を積み上げてみせる!」と、固く決意したんです。
怒涛の資産構築が始まる!
私はできるだけ早く叔父との約束を果たすべく、その後の生活をがらりと変えました。まずは出費の見直しです。
ひとり暮らしゆえ食事は毎日外食でしたが、すべて自炊に切り替えます。といっても料理は苦手なので毎日、チャーハン・焼きそば・パスタのローテーションでした。
仕事用のワイシャツは毎日クリーニングに出していたのをやめて、自分で洗濯して週末にまとめてアイロンをかけます。この頃にアイロンがけのテクニックはかなり上達しました。
クルマは手放したので維持費はかかりません。飲み会も遊びも控え、休日のレジャーは近所の散歩。以前はどこへ行くにもクルマでしたが、それからは電車や徒歩で移動するようになりました。
まさに爪に火を点すような暮らしぶりで、支出を極限まで抑えます。
そして貯蓄です。給与天引きの財形貯蓄で毎月10万円・ボーナス時50万円を積み立て、わずか1年で200万円以上貯めることができました。思いのほか早く、叔父との約束を果たせそうです。
私は返済金100万円とお礼の10万円をそれぞれ封筒に入れて、地方都市にある叔父の家を訪問。その場で封筒を叔父に直接手渡しました。
自分で積み上げた100万円の束は、ずしりとした重みです。「おー、案外早かったなー」と、叔父は気持ちよく受け取ってくれました。
それからも私の勢いは止まりません。叔父からの100万円以外にも残っていた借金を次々と返済し、銀行のカードローンも奨学金も車のローンも、わずか数ヵ月ですべて完済しました。
社会人になってから10年、初めて借金ゼロになったんです。生まれて初めて!といって良いほどのすがすがしさを感じました。
さあここから私の、怒涛の資産構築が始まります!
(次回に続きます)
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